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報告

優勝しました。
ファンのみなさまのおかげです。

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投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2006.11.18

笑えるジョーク

 新聞を読んでいて笑ってしまうなんていうことは滅多にないが、今回ばかりは笑ってしまった。掲載されていた、国民性を表現するジョークである。これが実に的確で面白い。北朝鮮、中国、韓国に厳しい産経新聞なだけに、結びの部分は省略するが、本文を転載させていただく。


2006.10.15産経新聞「産経抄」より
ベストセラーになっている早坂隆氏の『世界の日本人ジョーク集』に「スープに蠅が入っていたら?」というのがある。そんなときの各国の人々の反応だ。何でも現実と結びつけるのではないが、北朝鮮の核問題を頭の片隅に置いて読むと実に興味深い ▼まず中国人は「問題なく蠅を食べる」。ロシア人は「酔っぱらっていて蠅が入っていることに気がつかない」である。ここらあたりまでは、ジョークの範囲にとどめておいた方が無難だろう。しかしアメリカ人や日本人となると、にわかに現実味が増す ▼アメリカ人は「ボーイを呼び、コックを呼び、支配人を呼び、あげくに裁判沙汰となる」。いかにも訴訟大国、自らの正義を信じる米国らしい。これに対し日本人は「周りを見回し、自分だけに蠅が入っているのを確認してから、そっとボーイを呼びつける」という ▼最近の北朝鮮への対応はともかく、他国の顔色をうかがい、波風を立てまいとしてきた日本外交への皮肉とも受け取れる。だが最後に登場する韓国人の場合、リアル過ぎてジョークに聞こえない。「蠅が入っているのは日本人のせいだと叫び、日の丸を燃やす」というのだ…(以下省略)


 国民性を表す有名なジョークに「タイタニック」がある。沈没寸前、ある紳士に飛び込むことを促す際のセリフである。
 アメリカ人が相手なら「ここで飛び込めばあなたはヒーローですよ」。イギリス人には「あなたは紳士です、さあ今すぐに」。生真面目なドイツ人には「決まりで、次はあなたの番です」。そして日本人。どのようなセリフで飛び込むと想像されるだろうか。答えはこれである。「鈴木さんも田中さんも、飛び込みましたよ」。
 的を射ているというか、確かにそうかもと納得させられるというか。ジョークって面白い。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2006.10.19

直筆

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ぼくの名字は西原である。

写真の「西原」は、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)直筆の、
「西原」である。

小泉八雲とは、日本の文化や風土、伝統や習俗を愛した、
1850年生まれのアイルランド人で、
日本古来の伝説や説話などを基に多数の文学作品を残し、
「日本の魂の発見者」とまで言われる人物である。

ぼくは、彼の直筆の手紙の中から「西原」を発見した。
書体をなぞれば、インスピレーションを得られるだろうか。
何かを教わりたい。

写真:小泉八雲の筆跡。(小泉八雲記念館蔵)

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2006.08.02

Power

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勝守。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2006.04.02

Power

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約束を一つ、どうぞ。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2006.03.27

強い言葉

言葉が突き刺さる。
そんな経験を誰かに提供してみたいと思いつつ、
苦悩する日々がつづいている。
そんな僕にある日曜日の朝、言葉が突き刺さってきた。

住環境が静かな場所に変わったことで、
休みの朝に廃品回収のトラックの往来が多くなった。
スピーカーから大きな音でのアナウンスが聞こえてくる。
「いらなくなった〜」
決まり文句との思い込みで、普段は適当に聞き流していた。
しかし、今回の業者の言葉は違った。

「映らなくなったテレビ」
「音の出なくなったコンポ」
「壊れて動かない、パソコン、冷蔵庫、電子レンジ…」
「乗らなくなった、オートバイ」

これまでの多くは、
「壊れたテレビ、コンポ、いらなくなったオートバイ、自転車…」
くらいのアナウンスがほとんどだったが、
廃品例の一つひとつがよりリアルに表現され、生々しく飛び込んでくるのだ。
「壊れて動かない…」って、「壊れて」だけでいいじゃない、
「映らなくなった」や「音の出なくなった…」も「壊れた」だけでいいじゃない。

昔、ある先輩に言われたことがある。
「誰かに何かを即座に伝えたいのなら、すぐに理解してもらえる表現が必要だ」。
「例えば、年配の方に『浜崎あゆみ』の話題を伝えるのなら、ただ『浜崎あゆみ』ではいけない。『歌手の浜崎あゆみ』と頭に付けてあげる必要がある」と。

今朝のアナウンスには、その“伝える”優しさが根底に流れていたようだ。
すべてまとめて「壊れた」や「必要のなくなった」ではなく、
あくまでも「壊れて動かない」や「音の出なくなった」なのである。
「何かを伝えること」とはそういうことなのか、と考えさせられた。

まんまとそれにはまった僕は、その言葉の節々に、休みの朝から切なさを覚えた。
布団を抜け、部屋の家電たちに「君たちは大丈夫だよ」って、
いつもより優しく、ホコリをはらってやった。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2005.10.10

ヘアスタイル

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僕の坊主歴もとうとう10年になった。
人生の1/3は坊主というわけだ。
さらに野球少年だった時代を加えると、
人生の半分は坊主というわけだ。

…。

成人してから坊主にしたのには理由がある。
大学時代、友人宅にて男5人で飲みながらゲームをしたときのことである。
「これでビリの人、坊主ね」「いいねいいねぇ」
その言葉から、野球TVゲーム「ファミリースタジアム」の、
ホームラン競争が始まった。
ルールは1つ。
「ホームラン競争で使用する打者は、目をつぶり決定する」

他のみんなはなかなかいい打者を当てていた。
しかし僕が当てたのは、元巨人軍の木田だった。
木田ってピッチャーじゃん、こんなのダメだよ…。

泣き言など到底聞き入れられず、淡々とホームラン競争が始まった。

打撃を本職とする打者たちのパワーに勝るはずもなく、
ピッチャーを本職とする木田のボテボテゴロ連発という現実を
受け入れつつ、僕の坊主が決定した。

翌日、みんなの微々たる優しさで、丸坊主ではなく、
耳まであった髪を数ミリの長さにまで切ることで許してもらった。
しかし意外と短髪が心地よいことに味をしめてしまい、
そこから自発的にバリカンを使い自宅で坊主にする生活が始まったのだ。

近年、一度だけ髪型を変えたことがある。
度を越した不評と目にした人の爆笑のせいで、たった2日間の命となったが、
写真の画像がそれ、モヒカンである。
伸びた坊主頭のサイドを刈り上げ、モヒカンにしたのだ。
これもきっかけは罰ゲームだが…。

いつまでもこんなノリで生きていきたい。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2005.09.28

Weekly ぴあ

ちょっと広告。

05年9月22日(木)発売の「ぴあ」誌で武富士ダンサーズの特集があります。
その全ページを今僕の在籍する事務所Uguisで制作させてもらいました。

僕は演出・振付をしたTRFの3人(SAM,CHIHARU,ETSU)の
インタビュー&談話執筆を担当しています。
今回はこれまでと違い、皆さんに立ち読みしてもらえる、
そして記名のものとなっていますので、
22日以降、想い出しましたら是非ご覧ください。

ほぼ日本全国でご覧いただけます。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2005.09.12

ポイの誘い

 ある日本企業の社長さんが、ポール・セザンヌの風景画を競売に出すことを示唆した。落札予想価格は1,600万ドル。「ウチで扱わせてください」と競売会社のクリスティーズとサザビーズがアプローチを始めた。両社は美術家や専門家をニューヨークから本社(愛知県日進市)に何度も通わせ、最善の条件を揃え、どちらも「目玉商品」を獲得するべく努力をつづけた。
 そんな両社の頑張りを見た社長の決定は斬新だった。「クリスティーズとサザビーズで“じゃんけん”して決めてください」。条件的にどちらも平衡していた中で「同じくらい良い物が2つある場合、誰にも恨まれずにどちらかを決めるには一番いい方法」ということで、この方法を選んだらしい。結果はクリスティーズが「チョキ」、サザビーズは「パー」を出した。
 じゃんけんは中国で碁や麻雀の順番を決めるものとして生まれ、「石拳(じゃくけん)」または「両拳(りゃんけん)」の表記が日本のジャンケンの源であると言われている。宗教学者のひろさちや氏が、著書『まんだらのこころ』でじゃんけんをこう記している。
 「ある村で地蔵と観音像のどちらを祀るかもめた際『トップがじゃんけんして決めなさい』とアドバイスした」という。ふざけているのではなく、じゃんけんには見えない意志が働いており、選択肢を決定できない場合はその“意志”に任せるということなのだそうだ。サイコロなどにも同じ働きがあるのかもしれない。そんな話を聞くと思い出す。社会人になって間もない頃、携帯電話についていた「サイコロゲーム機能」で会社を休むか休まないかを決めたことがある。会社に行く朝「携帯画面の3つのサイコロが一発で揃ったら今日は休んで良し」と言い聞かせ、ドキドキしながらサイコロを振った。今までの人生で2回だけ揃い、しっかりと休ませてもらった。そんな休日は充実したものだ。それも見えない“意志”からのご褒美なのだとそのときも今も思っている。
 カナダのトロントには「世界じゃんけん協会」というものがあるらしい。先日『じゃんけん公式戦略ガイド(The Official Rock Paper Scissors Strategy Guide)』という208ページに及ぶ本を出版したそうだ。 2002年からはトロントでWRPS世界大会(the World Rock Paper Scissors)というじゃんけんの世界大会が開催されている。もしかしたら、これなら僕でも世界一になれるかも? チャンスがあれば「縄文時代に生まれて」で挑戦してみたい。でも、これほど“誇れ”ない世界一の称号も珍しい。「俺じゃんけん世界一なんだ」と言ってるそばから、目の前の友人に負けたりするだろう。「じゃんけんやサイコロには意志がある」と思っておくと、意外と人生、豊かになるかも知れない。「ポイ」と出した瞬間に、新たなストーリーが展開してゆくのだ。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2005.08.05

源泉へ

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時間の流れ方が変わる。万年筆を手にするとそう感じる。
使い捨てでなく、ZIPPOでタバコに火を付けるように。
いつもよりちょっといい食器でごはんを食べるように。
それだけで、時間も空間も豊かに感じることができる。

100円のボールペンよりも書いていて気分がいいから、
万年筆を握ると文字を書きたくなる。手紙を書きたくなる。
書きたくなるから、プラスアルファの言葉が生まれる。
優しい気分から編み出された文字群は、
受け取る人に豊かな時間、空間を与えるものとなるはず。

今、僕は3本の万年筆を使っている。
それぞれのペン先太さとインク色は異なり、
気分や機能によって使い分けをしている。
メールでは書かない内容が、
手書きの万年筆からは次々に誕生するのを実感する。

万年筆は、英語でFountain Pen。
Fountainとは泉、噴水、源泉の意。
万年筆にはインクのFountainだけでなく、
人の感情のFountainという意味も込められているに違いない。

と書いているこのタイミングで、大事な仕事が来た。
敬愛するアーティストにインタビューできることになった。
彼のFountainー源泉ーに、僕も全身全霊で触れたいと思う。

当日、どの万年筆を使うかは、まだ決めていない。

投稿者:高嶋真志  コメント (1)  2005.06.21

Connect

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 なんだかずいぶんと仕事が重なり緊張感もつづいたおかげで、ゴールデンウィークも休んだようで休めなかった。しかしそれでも、休みの時間は存分に満喫し、本能のままにゆっくりと、身近な範囲の中で過ごすことができた。それにしてもこのゴールデンウィーク、残念に感じることが多かった。
 「薪能」を見に行ったのだが、何度もがっかりさせられた。「野村萬斎」も出演する立派な能・狂言なのだが、ボランティアと称するスタッフたちのあまりにも浅はかな働きぶりには心底辟易し、コンサート会場などでのプロのスタッフの働きはさすがだったんだと思わされた。スタッフ同士の私語に加え、客の誘導などもまるでできていない。開演したというのに、おばちゃんスタッフ何人もが声を発しながら周囲をウロウロウロウロ…、若い男女のスタッフはお客を気にせずにおしゃべり、いろんな箇所でビデオ撮影…。ボランティアと言えば聞こえがいいが、いなくていい人だらけであった。
 また、約1.5時間の自宅から表参道までを歩くことも何度かした。その間の光景が頭に残る。楽しそうな家族連れが車に戻ると駐車違反。若い恋人が2人乗りするオートバイが白バイに止められる。バイク便の兄さんが仕事中だろうに警官に捕まる。代官山を過ぎると、何台もの車がレッカー移動されていく。
 普段みんなさ、頑張って生きてるんだから、いいじゃねえか。たまの休みのときくらい。
 駐車違反の家族だって、たまのお休みにみんなで楽しみに来ているんじゃないの? 彼女を乗せたバイクの男だって、働いて手にしたお金で彼女をどこかに連れて行き、夜は美味しいものでも食べようとしてたんじゃないの? バイク便の兄さんは、仕事してんじゃん。目の前を何台も過ぎていくレッカー移動中の車の持ち主は、その事実を知った瞬間誰もが、せっかくの楽しい休日が途端に沈んだ気分になるでしょ? そりゃ、ルール違反しているならば、その人が悪いのは決まってる。でもさ、ゴールデンウィーク中くらい、もう少し大目に見てやってもいいんじゃないの? と、強く思った。
 そもそも「ゴールデンウィーク」って、毎年この時期に興行成績が良かったことの継続を考えた、映画会社の専務が考え出したものらしい。その他にもデパートが考案したバレンタインデー、まごの日、など、世の中には上手く市井の人々を乗せた記念日がたくさんある。こんな風に思うと、所詮俺たちは、人のルールの中でしか生きられないんだ、って思ってしまう。
 でも、そこで立ち止まりたい。無神経なボランティア、非情な交通取り締まり、さらには政治家うんぬんを言う前に、「文句を言うなら自分がどうにかすればいいじゃないか」と考えたい。メディアで見るどんな政治批判に触れても、政治家は誰もが立候補して選ばれるいうプロセスを経て、政を為している。文句があるならばこの立場に自分がなればいい。
 北野武が書いた「詩」を思い出す。「僕は操り人形だ。家族や仕事、社会や政治にがんじがらめにされて生きている。でも、それらの糸があるからこそ、僕は立っていられるのだ。全部切れてしまったら、途端に僕は立っていられなくなる」。 ※僕の記憶なので、正しい詩ではありません
 確かにそう思う。いろんなしがらみの中で人は生きている。でもそれらがなくなると、人間は立っていられなくなる。「常識は、社会の守り神である」とゲーテが言うように、この“つながれた糸”の中でこそ、多種多様な価値観を理解し合いながら、我々は生きていかなくてはならない。
 樋口一葉は言った。「面白く、おかしく、さわやかに、いさましく、世の荒波を漕ぎ渡ろう」。改めてこの言葉が胸に染みた、2005年のゴールデンウィークであった。

写真:すべては一つに帰する。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2005.05.11

リアル

 風景。パソコンを眺める。テレビを見る。新聞を読む。人々の群れを傍観する。僕の周りを取り囲む、空間。真実を見ろ-僕に囁く、声。この世界は幾多ものフィルターが張り巡らされているんだ。取り除け。真実を見るんだ。天使のような顔をした悪魔が、顔を無理やり歪ませる。従いたくなかった。従わざるを得なかった。
 遠い遠い海の向こうで、同じ肌の色をしていて、同じ目の色をした人が、殺されたらしい。どこからか入ってくる情報。そんなのは嘘だ!-悪魔ががなりたてる。そんなのは煎じきった、出涸らしの情報だ。体が無意識に動き出す。パソコンを起動する。ロイター版-はずれ。共同通信-はずれ。どれもこれも嘘ばっかりだ!口を尖らせる悪魔。小さなため息を、ゆっくりと一回。気がつくと僕の両足は、インターネットという泥沼の中に浸しきっていた。泥沼からは這い上がれない。許されない。悪魔の監視。舌なめずりをした狡猾そうな表情で、僕を見張っている。獲物を見張る目つき。大きなため息を、ゆっくりと一回。じゃぶじゃぶと、音を立ててながら足を漕ぐ。フィルターに張り巡らされた世界-うんざりだった。悪魔に監視される毎日-もっとうんざりだった。僕はもう、子供じゃない。本当の話を、僕に聞かせてくれ。
 「イラク**さん首きり映像」震える手を制止しながら、ダウンロードする。血走った目。気持ちの悪い汗。頭の中がショートを起こす。人間が、人間によって殺される映像。何のためらいもなく、淡々と作業をこなす人々。意味の分からない言葉で何かを唱えている人々。首の皮が切れにくいのか、ごりごりと、音を立てるように引きちぎっていく。首のない体は、ただの肉片だ。身体とは、呼べない。そこらの肉屋で叩き売りされている鶏の胸肉と、さほど変わらない。
 これが私の欲した真実なのか?そうだ-粘ついた、悪魔の声。これが人間の姿さ。悪魔が急に声をあげて笑い始める。腹を抱えながら、こっちを見ながら笑う悪魔。シナプスが混線する。目の前の風景が、コマ送りになる。急いでテレビの電源を入れる。能天気な連続ドラマ。人間は、愛を育むので精一杯に見える。チャンネルをニュースに変える。金にまみれた男の、金を巻き上げた話。経済アナリストが、あーだこーだと能弁を垂れる。どこにもあの映像はないし、面影すら残っていない。あの映像は、嘘だったのか?それとも、僕を取り囲むこの空間が、嘘だというのか?相次ぐ混線。カチカチと音を立てながら、私を取り巻く空間がコマ送りになる。フィルターを取り除いた世界は、僕には眩しすぎた。
 純度100%の蒸留水は、大なり小なり己の体にショックを与える。それは、自分の汚れに気付きたくないからか。それとも、汚れを洗われる事自体が怖いからか。どちらも違うかもしれないし、どちらも同じ事なのかもしれない。もしかしたら、そんな事はどうでもいいのかもしれない。ただ、何が本当なのか分からない中で、自分の血に従って生きていくのは、かなりエネルギーを必要とするのだろう。
  見上げると、鏡の向こうで悪魔が僕を見つめる。鏡に映っているのは、紛れもない、自分。ふと気付く。それだけは、リアル。

投稿者:Munetaka  コメント (0)  2004.11.12

秋の夜長は。

秋になった。この季節になると、どうも持病の徘徊癖がうずきだす。この季節、コートの襟を立てたくなる夜、私の思考が行き着く先は「徘徊」である。真夜中寝静まったシャッター街を、ただひたすら歩く。あえて各メディアプレイヤーや、人が作った音楽、楽器の類は持ち歩かず、呼吸の音や、無音という「音」を肌で感じながら、ただただ歩くだけ。時たま、白身が若干多い卵色の月を睨んで、またひたすら歩く。途中、コンビニで飴玉を一つ購入し、口をもごもごさせながら、飽きずにまた歩く。
 こうして非現実的なイベントをこなすと、それまで見えなかったモノが克明に見えてくる、というより、今まで見まいとしていた自分自身に気付かされる。例えば日常が音で溢れすぎている事、普段下ばかり向いて歩いている事、それらはほんの僅かな意味合いしか持たないものではあるが、再認識する為にはこの「徘徊」という作業はもってこい、なのである。
 そうして昨日もまた、「徘徊」をしてしまった。何を思ったのか、私は友人に借りたウクレレを持っていってしまった。ルール第一条である、「音を持ち込んではならない」という大事な決まりごとをいとも簡単に破ってまでも、ウクレレを持っていこうと思った自分に、軽い罪悪感を覚えながら…。階段をわざと摺り足で降りて行き、アスファルトの道路にゆっくりと降り立つ。エントランスのドアに映った自分をふと見つめる。小脇にウクレレを抱え、深夜に徘徊する男。完全な変態野郎だ。漠然とした脅威に対する恐れを感じつつも、いつもよりやや申し訳なさそうに道の端っこ辺りを歩く。少しして立ち止まり、恐る恐る弦を鳴らしてみる。「ポロンポロン」と、いつも通りの乾いた音が街に響き渡る。…単純に気持ちがいい。いつもはパチンコ屋のジャラジャラ音や、がめついおばちゃんのだみ声「あらやだわ奥さん」的音や、ちり紙交換ちり紙交換と半永久的に流れる拡声器完全無責任音など、そういった日中の絶対的な音の支配者から逃れた街が、この小さな小さな弦付き木箱の音を優しく受け入れてくれるのである。多少控えめなボリュームでコードを進行させていく。カッティングするときの小さな「ジャッ]っという音も、非常に寛容な態度でこの街全体が受け入れてくれている気になる。何と優しい街なんだ!と、アホまるだし、鼻水出っ放しで感動する。
 最近よく感じるのは、日々生活していく中で様々な媒体が異常に氾濫している、という事である。人間は寂しがり屋だからなのか、必要最低限のモノで満足することが、苦手らしい。雑踏の中で、平然と大声で話す人々、無神経としか思えないセール中の店頭のステレオ、もはやボリュームを調整する機能などはどうやら必要ないのかもな、という錯覚に陥ってしまう様な音が、最高級のステレオから流されていく。ため息が急に重みを増してしまう。秋なのだから、もう少し皆思い詰めた顔で歩いて欲しいものだなどと勝手に怒りを増幅させてしまう。
 何も気張らずに夜を「徘徊」すると、ときたま下らない事に首を傾げるのである。それなのに私は今日もまた、街を「徘徊」する。途中飴玉を購入し、口をもごもごさせながら。

投稿者:Munetaka  コメント (0)  2004.10.26

Realize

今日の夜、学校帰り電車に乗っていると、車内から気違いじみた音色が聞こえてくる。何だっと思って、周りを見渡してみると俺の後ろで床に座り込み、おもちゃのようなプラスチックの縦笛を一生懸命吹いている黒人の方がいた。それはとても音楽とは言える物ではなく、良く言えばスピリチュアル、エモーショナルな音色、悪く言えば、子供が適当に吹いているような、たんなる雑音。どっちかといえば後者に属する物だろう。もしかしたら、宇宙の電波を受信して、それを笛で表現してるのかも、もしくは、これから起こる天災を僕らに知らしてる警告なのかも、とか思う。いつの間にか、その音色に耳をすましてる自分がいる。何かヤッているのかも知れないが、彼はものすごく集中し、真剣だ。何かに取り憑かれたように10分以上演奏している。その音色がいつの間にかJohn Coltraneに思えてくるような感じは、まったくないんだけど、その姿勢に考えさせられる物があった。その形式にとらわれない、自由な表現。自分なんかは形式に結構とらわれてしまい、自分の本当の気持ちや意思を伝えられなかったり、表現できなかったりしていまう。形式や理論ってのは、とっても大切なんだけど、それにとらわれすぎると,本当に自分が何をやりたいのかを見失ってしまうように感じる。アートなんか特にそうで、基礎とか凄く大事なんだけど、自分が何を表現したいかって事が一番大事な訳で、それがないと人の心の琴線に触れるような作品はできないと思う。でも、自分を表現するって簡単なようで、凄く難しい。なんか恥ずかしいような、自分をさらけ出すような感じで。それが簡単に出来ちゃう人もいるんだけど、自分はなかなか、それが出来ない。それが今の一番の課題であり壁であると、電車を降り、歩きながら思った。もしかしたら、自分が良いと思う音楽が間違いで、彼の音楽が本当の音楽かもしれない、もしかしたら、彼は十年も二十年も、もっと先を行っているのかも知れない。そんな終わりのない空想、妄想をしながら家に着いた。彼は今もどこかで笛を吹き続けてるだろう。

投稿者:Tetsuya  コメント (0)  2004.10.07

POWER

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深夜1時の「太陽の塔」。怖いほどの存在感に身震い。
岡本太郎はまだ日本にいるのだろう。

投稿者:高嶋真志  コメント (0)  2004.09.29